十年一昔と言うけれど~東日本大震災

 10年前のきょうのことは今でもはっきりと覚えています。都議会の第一回定例会の最終日で、都知事の石原慎太郎さんの挨拶を終えて、会派の控え室に戻り、「今晩の打ち上げの場所はどこだったかな」と思っていたら、すごい揺れが始まりました。

 そして、自席から外を見ると、京王プラザホテルの隣の高層ビルが左右に動いていました。「ビルって、あんなに揺れるんだな」と思いましたが、それがあの大規模な震災の始まりだったとは思いも寄りませんでした。

 それから、妻の携帯に電話をしましたがつながらず、卓上の電話から再度してみると今度はつながり、自宅には特に被害がなかったことが分かりました。そうしたら、同僚が「車で帰るから乗っていったら」と誘ってくれました。

 都議会を出て青梅街道をまっすぐに杉並方向に向かいましたが、新宿中央公園では近くのビルから出てきた大勢のサラリーマンが白いヘルメットを被り、まるで訓練のように集結していて、「しっかり落ち着いているんだな」と感じました。

 そうして、阿佐ヶ谷にある事務所まで1時間ほどで着きましたが、沿線の両側には目立った被害を見ることはなかったものの、1軒だけ土蔵のような建物の屋根が壊れていた風景が忘れられません。

 事務所はすでに事務のパートさんは勤務を終えていて、鍵を開けて入ると、棚に飾ってあったものが数点だけ落ちていました。しかし、それ以外は変化はなく、歩いて数分の自宅に戻りましたが、こちらも問題はありませんでした。

 その後、津波や原発崩壊のビデオを繰り返し、繰り返して見ることになるのですが、現在でもその様子を思い出すと、虚しさと悲しさが何度も襲ってきます。あらためて、亡くなられた皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。 

 なお、写真は現地の役所にご迷惑をお掛けしないようにして、被災地から学び、義援金をお届けするために訪れた石巻市で撮ったものです。後ろに見えるのは市立門脇(かどのわき)小学校です。

 私のルーツは文字どおり、この辺りにあって、黒く焼け焦げた校舎やその日でめくられることがないカレンダーは一生、忘れることはありません。特に被害を受けなかった私たちもこの災害を後世に伝えていかなければならないと思っています。

 また、同じ市立の大川小学校のことはとりわけ衝撃的でした。当時、友人の宮城県会議員にお願いして、いろいろなことを教えてもらったのですが、将来ある小学生74人が一つの学校で命を落としたことに今でも胸が締め付けられ想いです。

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